『二律背反』 (さわ・な様より)
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流れ行く紫煙を目で追う彼の内部は、先程までが嘘であったかのように、平穏で平坦だった。ほんの数刻前まで、内部であれほど荒れ狂っていた激情の一切は、奇妙な位にまでなりをひそめ、傍らで横たわる女性の上にその名残を留めているのみだった。
その様を眺めるともなく眺めながら、彼は薄く笑う。長年に亘り培ってきた自制や自負ですら、制御できないほどの狂乱を生じさせた理由。それを思う時、笑う事しかできそうにない。己の卑小さと、運命の無情さと。所詮、己の力とは、その存在自体も含め、限られた器に容れられた、限られた物にしか過ぎないのだろう。仮令ヘッドとして生を受けようが、与えられた命を履行することしか機能の無い…。唇の端が皮肉の形に歪んだ。
傍らには死んだように横たわっている女性の姿があった。あれほどの狼籍を働かれたにも関わらず、その造形美は損なわれてはいない。むしろ彼の付けた凄惨過ぎる傷が、その整い過ぎる容貌に歪んだ彩を添え、奇妙な色香すら漂わせてさえいる。実際、彼女は美しいのだ。それが余りに完成され過ぎていて、いっそ近寄り難いほどになっているため、多くの者は失念しがちなのではあるが。
手を伸ばし、流れるままになっている青紫の頭髪をすくった。手に馴染んだ感触に、唇の端に、淡いが限りなく苦い笑みが浮かんだ。この女性をいっそのこと憎みきれたら、そう思った。もう片方の指で伸びた犬歯をなぞる。そうすると、彼女に惹かれている己を痛感させられる。それは決して快いだけの感覚でも、胸を騒がすだけのものでもない。そのまま唇を指先でなぜると、指に薄っすらと彼女の血がついた。指についた血を舐めると錆びた鉄の味がした。そのまま誘われるように苦痛を訴える形で凍った唇に、己が唇を重ねた。
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息詰まる感触に目を開くと、閉じた男の瞼があった。男が己の唇を貪っていることに気付くのにそれほど時間はかからなかった。己に伸し掛かりかけていた男を咄嗟に突き飛ばす。その両の腕の力は、どこにこれだけの力が残っていたのかと、己でも呆れた程に強かった。呆気に取られたかのような表情を作った男が、こちらを見ている。その顔を見ると、容易く怒りに火が点いた。惚けたようなその顔が気に喰わない。男が掛けたらしい布すら厭わしく、殊更乱暴に払いのける。
「…どう言うつもりだ?」
男は答えなかった。そう言った己の声は震えていた。それは怒りだと思いたかった。何の理由も断りもなしに狼籍をはたらかれた事に対する、純然たる怒り。断じて恐怖ではない。男の反応の鈍さに舌打ちし、更なる糾弾と罵倒を加えようと立ち上がりかけ、だが果たせずにその場にへたり込んだ。
全身、特に身体の下の部分に力が思うように働かない。男の加えた暴力は、表面に表れている以上に現実には己が肉体を喰らっていたらしい。この感覚には覚えがある。
(あの時と似ているな…。)
胸の内をある光景が過ぎる。同じ男に半ばは無理矢理に犯された時の事だ。それは彼女にとっては己の器が女だとこれ以上ないほどに自覚させられた最初でもあった。その時、男は彼女に言明した、貴女が欲しかったのだと。そしてかきくどくかのように彼女への感情のたけを口にした。その言葉と態度の嘘の無さと、それにより痛感させられたこの男に対する己の真意との故に彼女は男の行為を結局は是認したのだが、今回はそれとは全く勝手が違う。
「何だ、理由は無いのか?」
その言葉で男はようやっと我に返ったらしい。やけに間延びした動作で彼女に歩み寄ると、妙に機械じみた動作で、無言のまま晒されるままになっている裸身を覆う布を差し出す。その手を力任せに払う。男の手が空を切った。彼女は射竦めるかの如く、強い視線で男を睨んだ。
「この私にここまでの狼籍を働いておきながら、何の釈明も弁明も無しか?」
さらされた素肌を隠そうともせず、むしろ男に見せつけるようにしながら、彼女は声を張り上げる。
返答のつもりか、男は詫びともとれない言葉を微かに眩いた。
「…すまない。」
それでも一向に彼女と視線を合わせようともせず、言明をしようともしない。ただ黙って布を差し出す。その言葉と態度に血が沸騰した。
(…この野郎。)
彼女は痛みも忘れ、中腰になった彼の襟首を掴んだ。
「私は貴様の欲望処理の玩具か?え?」
言い馴れない皮肉が口から出た。無理な姿勢のまま、男の襟首を締め上げる。男は為されるままだ。彼女は大きく舌打ちした。
「おい、せめて何を言ったらど…!?」
己を見る男の目の余りの暗さに、反射的に手を離す。体全体がぎこちなく傾いだ。
「…貴女に何が分かる…?」
漸く眩いた男の声は、今迄聞いた事が無いほど低く、背筋を凍らせるほどに冷たかった。
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女性の首にかかった己の指を、彼はやけに冷静な目で見ていた。彼の手の中、彼女の首は容易く手折れそうなほどに細かった。指の腹に彼女の血の流れを感じる。確実に脈打っている感覚が力強くも温かい。
「…それがお前の本心か?」
掌の中の女性は、嘲るように唇の端を歪めた。
「…そうかもしれないな。」
己の声の苦さに彼は薄く笑った。そうなのだ、私は常にどこかで彼女の死を望んでいた。愛していると嘯くのさえ、それを無理矢理に抑え込もうとする意識の無意識の現れのような気さえする。
「俺には貴女を破滅させることもできた。それを…己が下らない感傷にとらわれ、それを見失っていた…。」
彼女が悪魔として天使に為してきたこと、野心家である彼女がその野望の実現の為にやってきたこと。その残酷さや非道さが脳裏に次々と浮かんでくる。彼等の運命にすら、彼女の悪逆な行為は影を落としている。
いっそのこと、今ここで彼女が死せば全てが終るのかもしれない。そう言った考えに支配されていく。この指に、僅かに力を込めれば良いだけだ、そうすれば彼女の命の灯は消える。隙を見せた方が悪い、彼女の理屈によればそうなるだけだ。それをその身を持って具現させれば良い。
「…。」
それでも結局、その指にそれ以上の力が入ることはなかった。彼女の首を手の中に捉えたままの己の指を見やりながら、鳴呼、これが己の弱さかと、彼はやけに自嘲的な気分になった。彼等への思慕に狂いながらも、彼女にもまた思いを残している。
「やらんのか?」
一向に次の行為に移らない彼に対して、女性はやけに荒んだ笑みを浮かべた。
「なら代わりにお前が死ぬか?」
女性は、その姿勢のままで手近にあったグラスを掴み、床に叩きつける。派手な音がしてグラスが割れる。女性は血が流れ出るのも構わずその欠片を鷲掴むと、彼の首を正確に狙う。直に感じた首の上のぬめる感触は、どこか他人事のようでさえあった。
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彼の血の飛沫が顔に飛ぶ。今、斬ったのは致命傷になるような血管ではなかった。咄嵯に狙いを外した己に笑いたいような気分になった。男の指先には、それ以上に力のこもる気配はなかったし、彼女もまた、狙った手をそれ以上は動かせなかった。男の目を見ると、言うべき言葉すら見失ってしまいそうになる。天使がよく言う痛々しいというのはこう言った状態を指すのではないだろうかと彼女は思った。それでも、思わず見つめようとしてしまっている己にも気付く。漆黒の双眸が彼女を見下ろしている。私が囚われたのはこの眼差しだ、犯し難いほどに強くて、時に冷淡で、時に例えようもなく烈しいこの深暗の瞳。
「それが出来たらお互い苦労せんか…。」
呟いた己の声はひび割れ、儚くさえ聞こえた。鳴呼、私も随分弱くなったものだと彼女は思った。疲弊しているからなのだろうか。
その原因に心当たりはないが今この男は、常の怜悧さも強靭さも忘れ、正気すら危うくしている。彼女の野心の尽くを阻むこの天使の男を殺すのにこれほどの好機は無いだろう。それを逃すなど、己らしくもない。母に合わせる顔も無いなと、彼女は思って薄く笑った。
ガラスを握っていた手から、体全体から力が抜けた。崩れそうになった体を抱き支えたのは、矢張りこの男の腕だった。相変わらず確りした頑強な腕だった。その腕の中を温かく感じる己の情けなさを彼女は声を出さずに笑った。
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彼女の言葉が胸に刺さった。それはどこまでも苦い自覚だった。いっそ愛しきれたら、或いは、いっそ憎みきれたら。それができれば、彼女を殺す事も能うだろうに。腕に抱く女性は、どうしようもなく愛しく、どうしようもなく憎く、殺すことすら容易くないように思える。他に何も思い付けず、彼は彼女を抱く力をただ強めた。女性の身体の線が腕に心地良くもあり、それがやるせなくもあった。
どちらからともなく唇を絡ませた。恐らく先に絡ませたのは己だったように思う。何も語りたくは無かったからだ。口腔内は濃厚に血の味がした。彼の血か彼女の血か。どちらの物であっても構わないと思う。そのまま、己が先程つけた傷を癒しでもするかのように、己がつけた傷を撫でさするように、掌を、指先を、唇を、冷えた肌の上に滑らせる。抱いた彼女が身じろぐたびに、手を休め安堵させるようにその肩を抱いた。
女性が快楽を覚えることが出来るように、それ以外の感情を思い起せないように、それが全てだった。そして願わくば己が享楽を覚えられるように、それ以外の思考を働かせずに済むようにと、己がつけた彼女の傷に触らないようにしながら、ただ互いが歓喜に至れるようにと、彼は思った。
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先程の荒々しさが嘘のような手つきで身体を探られる。その手は先ほど暴力をふるったあの手であり、首を絞めようとしたあの指でもある。それでもその手を払いのけることは出来なかった。不思議と苦痛や不快感はなかった。そうであっても胸が抉られるような心持がする。
頬を涙が伝った。その頬を男の掌が撫で、唇が涙を吸った。男の顔が間近にある。泣く声を男に聞かれたくはなくて、唇を引き結んで男のそれに近付けた。男の舌が閉じた唇を抉じ開ける感触がある。束の間漂ったのは強烈な血の臭気だった。この男は血の臭いがすると思った、そしてそれは己にも言える事だと思う。それを思った時、自分はこの男を赦すのだろうと、確信のように思った。
彼に身体の主導権を与えていきながら、彼女は意識が彼岸に苦痛ではなく快楽によって運ばれるよう、その身を彼に委ねていった。ただ、眠れさえすれば良いと思った。
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煙草を吸いながら女性の寝顔を見つめていた。己が付けた傷を癒し、衣類を整えさせた彼女の顔は、すべてが整い過ぎていて、いっそ生気を感じさせないほどだった。思わず唾えていた煙草を彼女の口元に近付けた。彼女の呼吸を受け紫煙が微かに揺れるのを見とめると、彼は薄く笑った。己が行為の馬鹿馬鹿しさを誤魔化すように、逸らした視線のその先に、無防備に晒された首があった。
伸ばされた指先はその首に触れただけだった。指先は、おとがいをなぞり、上顎の辺りで止まった。暫くの間、そのままの姿勢で彼女を見つめていた。憎悪しながら執着し、愛していながらも固執しきれない。それが彼女への偽りの無い本心だった。
いっそ、狂えたら何も考えずに済むかもしれないとさえ思った。だがそれこそ叶わぬ願いだと、彼は自嘲気味に笑った。呼吸のためか半開きになった唇に軽く己が唇をあてた後、一切の曖昧さを振り切るかのように寝台を下りた。
寝室を後にしようとする彼の背中に声がかかった。
「何時か話せ…。」
眠っている筈の女性の声だった。声の重さに足が止まる。
「…あぁ。」
他に答えようもなく、彼は否定に聞こえない程度の肯定を示した。
「まぁ、その時までお互い生きておられたらな…。」
女性の声はどこと無く自虐的な響きを含んでいた。その声が意外だった。思わず振り返ると、女性は穏やかに眠っていた。
どうしようもなくいたたまれなくなり、彼は無言で空間を割り、彼女の自室を辞した。
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目が覚めると彼女は寝台に寝かされていた。彼によって負わされた傷は殆ど癒えている、恐らく彼が治したのだろう。軽い傷ならば、ヘッドクラスの者は直ぐに癒せる筈だ。
先程、裂かれた衣類も整えられており、余計な事をすると、舌打ちしたものの、それから大きく嘆息した。
「阿呆が…。」
それはここには居ない彼に向けた言葉であったが、今ここに居る己へ向けたものでもあった。
あれほどの狼籍を働かれたのに、あれほど命を奪う好機があったのにと、彼女は唇を噛んだ。己も随分甘くなった。噛締めた歯が表皮を破り、血が形の良い顎を伝った。涙までこぼれそうになり咄嵯に掛け布に顔を埋めた。掛け布には、微かに煙草の臭いが染み付いていた。鳴呼、奴の臭いだ、そう思った。
それが彼女の心を、ほんの僅かにではあるが確実に癒した。
「…っ。」
そう思う己の弱さにどうしようもなく腹が立ち、握り締めた拳をカ任せに振り下ろす彼女だった。
FIN
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