『二律背反』 (さわ・な様より)
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戦況は彼女にとって決して芳しくはなかった。むしろ最悪だった。繰り返される敗退の報、減っていく手駒。気が付くと彼女の周りにあるのは失望と諦念だけだった。
(こんな筈ではなかったがな…。)
口に出来ない弱音も、心の中では頭をもたげてくる。己が野心をひたすらに追求して、ここまで来た筈だった。彼女は唇の端を歪める。その筈であっても、野望は近付こうとすればするほど、遠ざかるようでもあるらしく、一向に実現にまでは至ってくれない。もしかしたら、己と言う器は、己が抱く野望には小さ過ぎたのかもしれない。
(…阿呆らしい。)
無視できないほどに膨らんでくる弱音を、彼女は大きく舌打ちしてやり過ごす。そのような弱気に支配されそうになるとは、己でも気付かぬ内に疲弊していたらしい。一方で、そういった感覚自体、己が弱っている証のようにも思え、彼女は苛立たしさから、もう一度、大きく舌打ちするのだった。
2
耳の奥にまで響き渡る言葉に頭が割れそうだった。
『彼等が礎となるしか道は無い…。』
宿命を告げる声は、真っ直ぐに、静かに鼓膜に突き刺さる。厳かで逆らうこと許さないその声は、脳に直接刻み込まれ、声の主が去った後ですら、延々と反響し続けている。
(何故、彼等だ…?)
叫びは、音として発せられる事は無く、当然それに答える声も無い。代わりに、渾身の力で拳を握り締めると、手の平に爪が喰いこみ皮膚を破った。微かに血が滲んだのが感触で分かる。
(何故…?)
それでも叫びは呟かれず、当然、答える声は無い。
「…つ。」
声にならない叫びは行き場を失った憤りとなり、即ち壁を叩く拳となった。彼の強い力に、
部屋全体が衝撃で微かに揺れた。抑えがたい慙愧と絶望、自責と呵責とが、彼の内部で捌け口を求め、狂奔している。
「何故…俺ではない…。」
漸くはき捨てた眩きも、彼以外の何者にも拾われる事は無かった。
内部が焦げていく。当たり前の理性や分別と言ったものが、指向を失った激情に喰らわれていくのを感じずにはいられない。今、かろうじて保っているこの常の意識、自我や理性とか言った物は、今にも引きちぎられそうな薄皮のようだった。それを保とうとする方がいっそ辛い。こう言った感覚は始めてだった、自身の中の激情を抑え付ける事には慣れていた筈だ、それが今は何よりも辛い。
咄嗟に他人事のように思った。正気に留まろうとするのが、これほどの艱難辛苦ならば、それを放棄した時到達出来る、狂気のどれほど甘美なことだろうかと。だがそれを許すゆとりは彼の中にも、彼の周りにも、どこにも存在していない。
「何故、貴方は俺にこのよう力を与えた?」
見据えた視線の先には誰もいなかった。吐き出した呟きは高位の者への呪詛にも聞えた。口にすることで明らかになる事もある。それが遂には決壊を生む。彼は唇を歪め、声を出さずに笑った。建前として使っている筈の理性の一切が、音を立てて後退していくのがやけにはっきりと分かった。
3
空間の割れる気配に彼女は振り向いた。瞬時に身構えるものの、直ぐに警戒を解く。顔が苦笑の形に歪んだ。どうやら過剰に神経質になっていたらしい。そこにいたのはよく知った男だった。本来ならば、今ここにいる筈は無い男でもあったが、そうかと言って現れないことも無い男でもある。その程度に親しい男だった。
「どうかしたのか?」
彼女は怪誘そうに眉をひそめた。彼女の側からでは影になって顔が十分に見えないせいかもしれないが、男の様子が常とは違うような気がする。だが、それを確かめるよりも先に、幾らか乱暴に伸びてきた二本の腕で、身体が拘束される。頬が押し当てられているのは、男の厚い胸板だった。男が己の体を抱すくめたらしい。そうされてしまうと、男の顔は全く窺えなくなる。敢えて見せないようにしているようにも思え、それがどことなく彼らしくもなく、彼女は無理矢理に顔を動かし、顔の辺りを見上げた。彼の方が長身であるから、やはり影しか窺えない。
「…何があった…!?」
返事は無い。代わりに指先で顎を押さえつけられ口が開いた形で固定され、そこに舌がねじ込まれた。突然のことに、男の腕を振り解こうとするが、男の腕の力は強く、それよりも足が払われる方が早かった。
「!」
唇をつなげたままで、均衡を崩した身体を、強打しないような範囲で男は抱き支え、そしてそのまま、彼女の背を石の床に押し当てさせ、その上に自身も圧し掛かる。身体にもう一つ分の肉の重みが加わる。体勢が変わったせいで腕の自由は幾らかきくようにはなったものの、その分、下肢を拘束する力は倍になる。男の背を数度、殴りかけたものの、位置が悪いためか、空しくその手は滑る。
せめて抗議の声でも上げようにも口は依然ふさがれている。二重三重に不快な気分になった。彼女はせめてもの抵抗と、口腔内で暴れる、男の舌を力任せに噛んだ。口の中に血の味が一気に広がった。
4
痛みを感じ、舌を抜く。上体を起こしながら、抗う女性の腕を二本一緒にして、片方の手で押さえつける。それからもう片方の手の甲を舌で舐めた。薄く赤く跡がついた。女性の唇の端から血が一筋滴っていた。女性が血の混じった赤い唾を吐く。それは正確に彼の顔を狙い、外れる事はなかった。女性は唇を歪めて笑う。彼は無言で、顔に飛んだ血の混じった彼女の唾を拭った。
当然の抵抗を何故か快く感じる。薄く笑うと、襟の辺りに歯を立て、そこから力に任せて片手で上衣を裂いていった。就寝前のせいか一枚しかない上衣の切れ端の下から、青磁のような肌がじきに露になった。怒気に顔を歪ませる彼女の顔も、非難で張り上げられる声も、ろくに入ってこない。代わりに正体の分からない笑いがこみ上げてくる。唇の端を曲げたまま、片手と歯だけで細く裂いた歯で細く裂いた彼女の上衣で、その抗いの両の腕を、手首のところで一つに縛り上げる。叫ぶために開かれた口にも、同じように裂いた衣を噛ませ枷とし、物言いたげに引きつった頬をそのまま指で撫ぜる。
「暫く大人しくしていてくれないか…?」
そう言った己の声は、信じられないほど冷たく平坦だった。整った彼女の顔が、捻じ曲がるように歪んでいく。
いっそ愉快だった。唇の端が歪んだ笑いの形を作る、こう言った感覚には覚えがない、当然でもあった。己では必死に目を背けていた、力で他者を支配する暗い喜びに、感覚の全てが支配され、そのまま麻痺していくようだった。
外光に晒されるままになっている彼女の半身は、灯りに照らされ艶を増しているようにも見える。淡く輝く青磁の肌は、触れると心地好いほどに冷たかった。それを弄ぶ。幾度か求めた覚えもある彼女の体躯は、女性にしては筋骨逞しく引き締まってはいるが、それ故に華奢に見えなくもない。確りした筋骨の上に、意外と思えるほど滑らかな表皮がある。
それを舌で舐め上げ、唇で吸い、歯で噛んだ。瑕のない青い肌に、赤い染みが次々と広がっていく。それが正気の反転に拍車をかける。どうしてか笑いが止まらなかった。尊厳を穢すという、到底、天使らしいとは言い難い行為ではあったが、同時に正体の分からない高揚をもたらす行為でもあった。熱量を伴った愉悦に、己をだましつつ彼は酔った。
身体に残っていた最後の衣類を力に任せて裂き、そのまま剥ぐと、引き締まった細く長い足が現れる。大腿部を片手で持ち上げ押し開くと、身体の更に奥の方まで指先で無理矢理にこじ開けると、そこに強引に、こう言った状況でさえ、屹立する己が猛りを押し込んだ。
5
激痛が走る。身体を割り開かれていく痛みは、意識を明瞭にさせる。情けないことに叫びたいと思った。だが口の椥がそれを許さない。声を上げて痛みを紛らわすのも情けなかったので、むしろ、幸いしたかもしれないと、彼女は思考を強引に紛らわせる。そうとでも思わなければやっていられないような状況だった。だが、それで痛みが和らぐと言う訳でもない。
(いっそ、気でも失えたほうが楽か…。)
身体の痛みが、頭をより冴え渡らせ、意識を奇妙に明確にさせる。これならば普段の方がまだましだと思った。肉の裂けるような音が聞こえるような気すらする。受け容れる準備の無いままに、異物を受け容れているのだから当然であるとも言える。
決定的な部分で彼に主導される事になりがちな情交を、心底ではどこかで嫌っていた。己が身も心も崩されそうになる感覚はどこか居心地が悪いような気がするし、無防備な姿を相手に晒すと言う事態は更に居心地が悪い。相手がこの彼でなければ、耐えられそうにないし、彼以外にそれを許す気にもなれない。考えただけでぞっとする。これ以上弱みを見せる相手を増やしたくもない。
確かに時に一方的な事もあったが、今のこれに比べれば、常のそれの方がまだましだと思いたかった。幾らなんでもこれほど非道な真似はしない。縛り上げられた手首がやけに痛む。そこだけではなく、身体のあちらこちらに痛みが走っている。どうやら力の加減と言うのを完全に失しているらしい。ヒトの身体を何だと思っているのだろうかと、彼女は薄い笑いを浮かべようと努め、それよりも先に痛みで眉をしかめた。
目を横に向けるとすぐそこに寝台の足が見えた。
(寝台はあれ程近くにあるのにな…。)
思うのはこの状況に余り似つかわしくないことだった。そうとでも思わないことには、この状況に耐えられそうになかった。
6
石の床に赤い血の飛沫が飛んだ。身体の下では、女性が苦痛に身をよじり、顔を歪めていた。薄く笑いを浮かべたまま、椥のはめられた口に、唇を重ねた。女性の浮かべる苦悶の表情すら、こうなると内部の熱情を煽り立てる一要素に過ぎなかった。
およそ尋常ではない状態であっても、情慾は一向に衰えず、むしろ歪んだまま高まる一方だった。彼女が身をよじればよじるほど、苦痛の表情を浮かべれば浮かべるほど、高まり続ける己が劣情を自潮的に笑う。
嗜虐を何より嫌悪し、むしろそれを非難していた筈の己が、進んで嗜虐行為を、最も醜悪で深刻な暴力を振っている。それを紛らわすように、振り払うように、誤魔化すように殊更乱暴に女性の尊厳を侵す。
それで悦楽が得られる訳では決してない。彼女を犯すことそれ自体に対する、暗い悦びに似た感情は確かに湧く。だが、それはそこで留まるものに過ぎない。その先には何も無いのだ。言うならば犯すために犯しているようなものだ。そこにはどんな目的も、理念も、感情すらなかった。あるのは、歪んだ熱情だけだ。それをただ消化するべく女性の身体を蹂躙する。むしろその動作は凄惨化する一方だった。
それをわかってはいても、今更、総ての行為を取りやめることもできず、彼女の身体を極限まで裂いていくかの如く、彼は彼女の身体を抉り続けた。彼の身体の動きも、彼女の流す血も一向に止まらなかった。
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男の動きはとどまることはなく、加えられる力にも容赦はなかった。彼女が、わずかでも己の意思で身体を動かそうとすれば、彼の動きと逆行し、痛みは却って増していく。それ故、馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、彼女は己が身体を彼の好きにさせるしかなかった。余計な痛みを増やしたくないからとは言え、全く愉快な気分にはなれない。
(一体、何を考えている…。)
己を凌辱する相手の横顔を見ながら、彼女は考えるともなしに考えていた。やたら自制心が強く、故なく他者に己の力を誇示するような真似をする輩ではなかった筈だ。何かが、彼の中で崩れたらしい。
次第に、身体の痛みは臨界に達していく。それに伴い、意識も揺らぎ始めているようだった。時々、思考や感覚が途切れるようになる。積極的には認めたくはないことだが己が肉体は疲弊していたらしい。疲労が溜まっていた体に、彼の一連の行為は負荷が大き過ぎたらしい。己の身体に疲労が蓄積しているのが、この時ばかりは有難かった。意識が精彩を欠き始める。意識が彼岸に去っていくのにその時だけは任せた。
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最後の滾りが彼女の中に放たれると、内部の熱は急速に減退していく。同様に、先程までの狂乱の嵐は嘘のように引いていた。
「ワンダーマリア…?」
身体の下に敷いたままになっている女性の名を呼ぶ。その身体は微塵も動かない。慌てて己の身体を離すと、枷を外す。縛られていた跡が、手首で赤く痣になっていた。それ以外にも、身体の至る所に内出血と擦り傷があり、そして大腿部の内側には紅いものが伝わっていた。青い肌に赤い血の痕は鮮烈でもあった。
余りの凄惨さに、咄嵯に目を背けようとした己を嗤う。それらは総て彼によって為されたことに他ならない。己にここまで他者を踏みにじる真似ができたのかと、やけに自嘲的な気分になった。女性は眉一つ動かさない。ひそめられたままの眉が痛々しく見えた。腕で抱え上げると、大きく首が仰け反り、豊かな頭髪が床にまで広がった。軽く頬を掌で叩くと、女性は微かに声を上げた。そのことに安堵の息をもらした己を嗤う。彼女のこの姿は、全て己が仕業に他ならないのだ。
無理に動かして女性の身体にこれ以上の負担をかけるのも酷なようで、傷に触れないよう、静かにその場に横たわらせた。寝台の掛け布を、彼女の上に掛けてやりながら、彼は皮肉の形に唇を歪めた。つい先刻まで、その女性の苦痛の仕草や表情の一つ一つに煽情させられていたのは誰だったろうか。傷のない身体に傷を付け、悦に浸っていたのは誰だったか。どうしてかいたたまれないような気分になり、その肩を掛け布越しに軽く抱いてみた。彼女が発した小さな声は苦痛の声に聞こえなくもない。
それでも離れがたく、彼女の側に足を投げ出して座ると、何時の間にか脱ぎ捨てていた、己も上衣をはおる。ポケットを探ると、一本吸ったきりになっている煙草の箱があった。一本取り出して衡えると、火をつけた。じきに馴染んだ味が口腔内に広がった。
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